【ハルマモリとは?】
日常的に使ってもらえる事で信仰の意識が高まり 参拝客への PR に効果的です。
普段持ち歩く携帯電話の裏に「ハルマモリ」を貼付ける事で 日常的にお守りを携帯する事が可能。
繰り返し貼ったり剥がしたりする事も可能で、シールのように 貼付け面が汚れる事もありません。
ただいまテスト期間も兼ねまして、当方では簡易的なホームページの作成を初期費用・運営費共に御守を採用頂いた神社仏閣様には無料で製作させて頂いております。これから御守を奉製させて頂く神社仏閣様、もちろん過去に採用頂いた神社仏閣様でもご希望がありましたらお申し付けください。簡易ホームページなので、細かい部分などの構成は難しいのと当方で生成できるアドレスの数に制限がございます。※共有できるメールアドレスがあれば大丈夫です。また、製作には多少のお時間を頂戴致しますのでその点をご理解頂ければ幸いです。
御守を含めた授与品の告知、御社・御寺の周知のお手伝いをさせて頂きます。
製作の進行についてはお気軽にご相談ください。
亀戸浅間神社は、社伝によれば大永七年(1527)に創建されました。祭神は木花咲耶比売命です。もともとこの辺りの地は高貝洲と呼ばれていました。これは日本武尊が東征した時に海が荒れ狂ったため、弟橘媛が海に身を投じ、その際に身につけていた笄が亀戸浅間神社のあるあたりに流れ着いたことによるものです。のちに景行天皇(第十二代と伝えられる)がその地に笄塚を建てたとされています。この笄塚の場所に富士塚が築かれ、江戸時代には多くの信仰を集めました
「富岡八幡宮友の会」は、富岡八幡宮という江戸時代から日本を代表してきた神社の由来に深く思いを起こし、感謝を込めて、これからの東京の発展と、日本の安全と繁栄を願い、世界に貢献することを誓う有志が集まり、設立を企画したものです。
鎌倉中期、約700年前の創祠と伝えられる。江戸初期まで馬喰町初音ノ森(現在、中央区東日本橋に儀式殿を有する)鎮守として祀られていたが、郡代屋敷建設のため現在地に移される。日本一の繊維問屋街で商売繁盛の神様として信仰が篤い。
江戸開府に伴う江戸市街地の整備工事の最後、激しい波風に困難を極めた海面の埋立工事をピタリと納めた御神徳に「波除」の尊称を奉られ、雲を従える龍・風を従える虎を一声で威伏させる獅子の巨大な頭が奉納され、此を担ぐ事に祭礼も始まった。
〒104-0045 東京都中央区築地 6-20-37
海老原 愛真(あいしん)四柱推命鑑定士高野山真言宗 僧侶(阿闍梨)教師四国霊場第二十二番札所高野山準別格本山白水山医王院平等寺徒弟秩父札所公認先達西国三十三所公認先達(株)BEST WISHES 代表取締役社長晶香庵 庵主
天正十二年十二月、平貞盛の数世の孫服部貞殷が府中の六所宮現大国魂神社を勧請して赤堤の鎮守と定め、服部家の祈願所として奉斎したのが始めです。天明七年九月社殿再建、明治七年には赤堤村社と定められました。
永禄七年(1564年)伊豆の三島神社の分社として斎祀された。明治七年村社となり、大正四年社殿改築し村内天祖神社(二社)、八幡神社、稲荷神社(二社)、御嶽神社、山際神社計七社を合祀し、深沢神社と改稱した。
平安後期、源氏が陸奥安部氏征討の折、武運を祈願したと言われ、それ以前に創建されたものと思われる。江戸期には、天領・大名領・旗本領に細分化されていた太子堂村は、八幡様の祭礼を以って心を一つにしたと言われ、その心は今日にも受継れている。
創建は、鎌倉時代前期の建仁2年(1202年)といわれていますが、「江戸誌」によりますと文治5年(1189年)に頼朝が勧請したとの記述があります。いずれにしましても古くより祀られ、今年で816年もしくは829年もの歴史を有する神社であります。
平塚神社の創立は平安後期元永年中といわれています。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜されました。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守としました。
七柱の神々を祀ることが社名の由来です。明治時代以前には旧古河庭園内に祀られていましたが、明治初年に一本杉(樹齢千年)神明宮の現在地に遷座しました。大鳥居前に一里塚(日本橋より2里目)があり、旅人(旅行者)の守護神としての信仰もあります。
創立は応永年間、庭田(後の岩田)主水正氏兼(もんどのしょううじかね)が、武州豊島郡中丸村に移住し※、鎮守様として崇敬されてきた。庭田氏は常に敬神の念深く同族の繁栄を祈り氏神様として崇敬した。
※ここに熊野権現を分祀
神社創建の年代は定かではないが文化・文政年間(1804-29)と推定される。社殿には御嶽神社神紋の他、十六弁菊家紋を屋根棟・御扉・斗拱等に付しているが古い記録を焼失しているので、菊花神紋の使用を許可された理由は不明である。
長保年間 今から千余年前に 陰陽師安倍晴明により 陰陽五行説に基づき 三十間五角の境内に 古代の石剣を御神体として 紀州熊野の神を勧請し祀られた。東京における唯一の安倍晴明縁りの神社として知られる。
正治元年(1199年)武州一の宮(現在の埼玉県さいたま市)氷川神社を勧請して、下千葉村(現在地)の鎮守として奉斎される。また、同敷地内には1178年に源頼朝公により、関西方面から移された八王子神社も御鎮座されている。
満仲公は第56代清和天皇の御曽孫多田源氏の祖神である。幼少より文武両道に秀で国家に凛然として輝き、武門の棟梁たる勅諚を賜り国家鎮護の大任を課されたのみならず、或は沼地を開拓して広大なる田畑を造成し、或は河川を改修して農耕の拡大に寄与し、併せて源氏興隆に確固たる基礎を築かれた。
江戸時代初期、天正年間(1573-1591年)、隣接する大日堂再興の折に旧拝島村総鎮守山王社として現在地に建立されたと言われています。さらに桜町天皇の寛保元年( 1741 年)九月五日に宗源宣旨を受け山王大権現の称号を賜りました。
養和元年(1181年)別当高岳坊長温が諏訪大社を勧請し相原大明神と称した。明治四十四年七国の神明社、大谷神明社、橋本御嶽社、根岸日枝神社を合祀し、大正二年境山王社、橋本稲荷社、陽田疱瘡社を合祀した。
横浜別院は、病気平癒と厄除け、交通安全で有名な寺院です。山号が金運山とあり境内や本堂には大黒天や恵比寿様が祀られています。年始や新年度には企業や個人事業者の方々が商売繁昌祈願をされにきます。
京都の北野天満宮より勧請し、岡村天満宮を創建しました。
「学問の神さま」「文化・芸能の神さま」として信仰される菅原道真公を信仰し、現在では受験生をはじめ多くの参拝者の姿が見られます。
菊名町総鎮守八幡神社は明治6年12月村社に列格、同所無格社神明社、同杉山神社、同阿府神社を合併し、昭和10年8月22日社名を菊名神社と改称し、その後氏子区域の発展に伴い、社殿を修築、社務所・神楽殿・その他の施設を完備した。
江戸時代初期の慶安4年(1651年)の検地(土地所有調査)の際、鎮座地が滝頭村となってから約100年後、すなわち明和3年(1766年)に現在地へ遷座、例祭も8月15日に改め、その後明治41年に三社(天照皇大神、宇佐八幡大神、大山祇大神)を合祀し、今日に至っている。
安政六年 (一八五九)、 讃岐国象頭山 (四国琴平町) の金毘羅大権現を勧請して創建されました。初めは金毘羅大権現と称せられ、現在の横浜公園の地、港崎遊廓にありましたが、慶応二年十月二十日の大火に類焼され、翌三年、吉原町に御遷座し、更に明治五年に再び高島町七丁目の海側に遷座し、現在の御社号に改称せられたのであります。
大昔、今日の泥亀町から釜利谷東一帯は大きな入江でした。この入江と平潟湾とは、今日の瀬戸橋の位置にあたる狭い水路状の海峡でつながっていました。そしてこの小さな海峡は、潮の干満の度に内海の海水が渦を巻いて出入りする「せと」でした。古代の人は水流の険しい「せと」を罪穢れを流し去ってしまう神聖なところであるとして、豊な幸をもたらしてくれる神々をここに祭りました。これが瀬戸神社の起源です。
本村神明社は、横浜市旭区本村町にある神社です。本村神明社の創建年代等は不詳ながら、伊勢神宮が天禄元年(970)当地武蔵国御厨郷榛谷の地に影向、それより川井に、次いで二俣川に遷御せられた際の地が当社だともいいます。江戸期には二俣川村及び今宿村の総鎮守として祀られ、昭和7年には村社に列格していました。
日蓮宗 星川山 妙福寺
妙福寺は身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗の寺院です。創建は慶長(1596-1615)年間。開山は隨泉院日意。開基は第4世長昌院日解。元禄(1688-1704)年間の頃に、第6世養泉院日脱が堂宇を再興しました。明治時代になり、第37世立法院日壽が現山門内側に本堂や庫裡を再建。昭和に入ってから、42世取要院日芳が山門を再建し、本堂、客殿、庫裡等を山上に再興しました。山門の脇左側に南無妙法蓮華経と彫られた題目碑(宝塔)があります。この題目碑は第16世啓運院日量が、享保10年(1725)に建立したもので、本堂に向かって右側の山の中腹に在ったものを嘉永2年(1849)に第33世日忍が今の地に移設しました。高さ9尺余りの立派な宝塔になります。
〒240-0054 横浜市保土ヶ谷区西谷二丁目4番1号
「祝」「勝利」「平和」「復興」東西南北を守護する四神とともに日本文化を発信!
15人の神主+お坊さん+師匠とその弟子たち。
日本古来の「うた」や「舞」「楽器」に触れて。
全国の仲間と雅楽を演奏しています。
昭和初期に開創された「七面教会」が前身で、平成9年に寺号公称して、晴れて「妙恵寺」というお寺として再スタートしました。
妙恵寺の本堂には、久遠のお釈迦様、日蓮大聖人を中心に、七面天女・鬼子母神・帝釈天・救世観音等をお祀りしております。
お寺というと、敷居が高そう…、法事の時しか行かない…などなど閉鎖的なイメージがあると思いますが、本来の仏教は今を生きる私たちに、より良く生きる智恵を与えてくれるものであり、お寺は、今を生きる私たちにとって開かれた空間であるべきなのです。
そんなお寺を目指して、お一人お一人と真摯に向き合い、真心を込めて、よりオープンなお寺創りをしていきたいと願っております。
当社は養和元年(1181)神護寺文覚上人が京都、石清水八幡宮より勧請し創建しました。
その由縁は、文覚上人が源頼朝の為に源氏再興を発願し、治承年間(1177〜1180)上総国(千葉)鹿野山に参篭しました。源氏氏神と称え奉る石清水八幡の神に祈念をし、源氏再興の本願が叶えられれば勝地を探し求め八幡の一社を建立、末永く祭祀をせんと誓いをたてました。
養和元年大願成就の前兆を感得し、社殿建立の勝地を求め、各地遍歴の末に鹿野山に相対する浦賀西岸の現在地に石清水八幡宮の神を祭祀する社宇を建立し、文治2年(1186)神の霊験により源氏再興の大願が叶うたところから、叶大明神と称するようになりました。
奈良県桜井市の長谷寺を総本山とする、真言宗豊山派に属する寺院です。1533年(天文2年)に宥慶法印により開創され、元は香取市牧野の観福寺の末寺でありました。
左手観音堂に安置されている本尊は十一面観世音菩薩。
奈良時代の僧である行基菩薩の御作と伝えられており、安産・子育ての観音様として近隣の人々からの信仰を集めていました。平時は秘仏となっており拝観することはできません。
正面の本堂(庫裡)には真言宗の御本尊である大日如来。
その左右には真言宗の開祖であります弘法大師空海と、中興の祖であります興教大師覚鑁の像がございます。
毎年4月に行われている、弘法大師巡礼行事であります「札打ち」の際に、両大師の御開帳をしております。
周りからは親しみを込めて「えんのうじ」と呼ばれております。
後三条天皇の延久年間(1069年~1073年)頃、諸国を旅していた熊野本宮大社の神主によって創建されたと伝えられている。
ある時、神主が「高い丘を作って人々を救え」という夢を見たため、神社の裏山に盛り土をした。その後、安政の大地震が発生し津波により大きな被害が出たが、この里の人々は神社の裏山に避難をして難を逃れることができたという。 別の説として、明応地震の津波の犠牲者をこの地に葬り、浜からたくさんの砂を運び、大きな墓を築いた。沢山の砂浜からを運んで(浜垢離の起源)高い塚を築き、高塚の地名の由来となった。
当山は西山浄土宗総本山光明寺の末寺で元亀二年(1574年)に開創されました。当山は鎌倉時代に浄土宗を開かれた法然上人の法灯を継ぎ開創も戦国時代から存続する歴史ある寺院ですが,仏教者,寺院として,不易流行即ちいつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも新しく変化を取り入れ,これからも多くの方々とご縁が結ばれ,皆様からご満足頂けるよう努めてまいります。
明治40年に、朝日神明宮と皇大神社を合祀して、社号を朝日神明社とした。そのとき、春日神社と安喜良神社を合祀した。
明治維新以降、二社(朝日神明宮・皇大神社)とも社運が衰微し、維持が困難となり、合併合祀され、現社号に改称して、此花区川岸町に鎮座した。その後、境内周辺の喧噪が甚だしくなり、現在の社殿がある場所へ遷座することとなった。昭和20年6月1日、大阪大空襲により、社殿のほか、すべてが灰燼に帰したが、昭和24年に本殿、昭和40年には中門と拝殿を復興・再建を果たした。
〒089-5612 北海道十勝郡浦幌町字東山町18番地の1
〒049-5601 北海道虻田郡洞爺湖町青葉町54
〒077-0217 北海道増毛郡増毛町別苅205
〒078-8340 北海道旭川市東旭川町共栄92-4
〒040-0055 函館市船見町21番11号
〒470-0121 愛知県日進市本郷町宮下519
〒440-0891 愛知県豊橋市関屋町二
〒461-0005 愛知県名古屋市東区東桜二丁目八番十五号
〒447-0855 愛知県碧南市天王町3-132
〒737-0935 広島県呉市焼山中央2丁目11番11号
〒723-0003 広島県三原市中之町5丁目10−20
〒728-0015 広島県三次市十日市町188−2
〒720-0838 広島県福山市瀬戸町740
〒720-0838 広島県福山市瀬戸町740
長崎県壱岐市勝本町勝本浦554-1
勧請年歴不詳でありますが、古来「湯の神」と称して祀られました。
延宝7年(1679)秋、時の島原藩主 松平忠房公の命により社殿を再興、「小濱大明神」として祀られました。
また、劔柄神社は同時に社殿を造営されて「劔柄(たかひのみや)」と称しました。後に両神社は小濱神社・劔柄神社と名称を改めて産土神として崇敬されてきました。
両社はいずれも小浜温泉郷の中心に鎮座してきましたが、諸般の事情により平成7年秋、両神社を合併し、劔柄神社の地に新しく社殿を建立、名称を小濱神社として合祀しました。本殿内には小濱社・劔柄社とも古来の神殿をそのまま並べて祀られています。
〒854-0514 長崎県雲仙市小浜町北本町862番地
書物には創建不明とされていますが、当社の主祭神の由緒によると元徳元年(1329年)に、和歌山県の熊野三所権現の分霊を、小野町の山に熊野権現として創建されたのがはじまりとされています。
時は流れて戦国時代、宗家松浦党(本家筋)と平戸松浦(分家筋)との間で戦がありました。宗家松浦党は、当時の近代兵器「鉄砲」を要する平戸松浦党に、臆することなく勇猛果敢に戦いました。親子二代にわたり戦いましたが、終には和睦となりました。その後、天正8年(1580年)に小野町にある熊野三所権現からご神体を遷座し、現在地付近に飯盛大権現を建立しました。以降、平戸藩から崇敬を受けてこの地域の総氏神として親しまれてきました。
明治4年には、社号を飯盛神社と改名し、明治39年には現在地に鎮座地を遷し今に至ります。
〒858-0918 長崎県佐世保市相浦町2343
古老の言い伝えによれば、瓊瓊杵尊が日向高千穂峯に天降り給いし時御休息の御社といい、故に涼ヶ宮と称するとある(神社明細帳)。戦前は裏手の山に鎮座していたが、戦後現在地に遷座した。
明治末期から大正初期にかけて、瀬戸口鎮座の幸田神社(祭神三座神体木神)、中須鎮座の大日神社(祭神天照大神)、峯尻鎮座の諏訪神社(祭神建御名方命・下照姫命)、高江鎮座の山王神社(祭神大山祇命)、以上の無格社四社を合祀し、東郷一円の総氏神として信仰が篤い。末社に秋葉神社(火難除けの神)がある。
〒899-5105 霧島市隼人町東郷389
元和5(1619)年7月21日、島津家第17代当主義弘公は86歳で鹿児島の加治木屋形にて逝去されます。後に御遺体は福昌寺に埋葬、神主影を加治木本誓寺と伊集院妙円寺に祀られました。
中でも本誓寺では境内に御霊舎を造営し、参拝が絶えなかった様です。しかし、明治期の寺院廃止の命を受け廃寺となります。そこで直ちに加治木屋形内に社殿を造営し、社号を精矛神社と称すことになります。
後の大正7年、この年は公の300年祭に当たりました。そこで、加治木町日木山の公の別荘跡地に社殿を移し、同年11月に御遷座を執り行われました。これが現在の精矛神社になります。
〒899-5204 鹿児島県姶良市加治木町日木山311
当社は、保安四年(西暦1123年・平安末期)鳥羽天皇の御宇時の蒲生院総領職であった蒲生上総介舜清【かもうかずさのすけちかきよ】が、豊前國宇佐八幡宮を勤請して、現在の地に創建せしものなりと云ふ。爾来、今日に至るまで、蒲生家及び島津藩主とも当社を深く敬齋し、特に、島津義弘公は社殿を再興し、新たに華表を建て、正八幡若宮の額を掲げ、大刀、甲冑、宝器を寄進するなどしたので、御神威弥益々に増せりと云ふ。かく、歴代藩主を初め藩民の崇敬弥厚く、祭祀も厳かにとりおこなわれて来たが、廃藩置県以後は、闔郷の宗廟として、また、あまねく郷民の心の寄り処として限りない信仰を集めて来た。故に、明治六年五月郷社に列せられ、更に、大正五年五月十九日県社に昇格した。
〒899-5302 鹿児島県姶良市蒲生町上久徳2259-1
兵庫県赤穂郡上郡町山野里2745
大石神社は明治天皇の宣旨を契機として明治33年神社創立が公許せられ、大正元年11月、四十七義士命を祀る神社としてご鎮座になった。
ご祭神は大石内蔵助良雄以下四十七義士命と中折の烈士萱野三平命を主神とし、浅野長直・長友・長矩の三代の城主と、その後の藩主森家の先祖で本能寺の変に散った森蘭丸ら七代の武将を合祀してある。
時は南北朝時代、延元元年(1336年)5月、楠木正成公が湊川の戦いにて獅子奮迅の働きむなしく足利勢の大軍に包囲され、弟・正季(まさすえ)公と刺し違え自刃されるより前、家臣吉川弥六に日頃守護神として崇め身に着けておられた八幡大神の神璽(みしるし・文殊のようなものと伝わる)を託され、戦場より逃れ安住の地にて奉祀するよう命じられた。弥六は神璽を首にかけ、仲間数人と共に夜陰に乗じて海路淡路島に落ちのび、現在の淡路市楠本付近の浜に辿り着いた。上陸し、疲労のあまり仮眠していたところ、兎に起こされ追手に気付き更に山奥へと逃れた。これより後、弥六一行の子孫は兎を八幡大神の厄除の使いと考え、その肉を食する事を禁じたと伝わる。
弥六達は潜伏を続けながら山中に小祠を建て八幡大神を祀り、周囲を開拓し一帯を楠木村と称した。これが後に楠本(くすもと)村と改められ、現在の淡路市楠本となったものである。現在も楠本地区にはこの小祠が元八幡として伝わっている。その後、この小祠については弥六一行が残党狩りを逃れた厄除の御神徳をはじめ、祈願成就の御神徳顕著なる事が評判となり、応永6年(1399年)に来馬庄(現在の久留麻の社地)に遷され、来馬・浦・仮屋・谷・下田・楠本・中持・小田・河内・白山などの村々の鎮守の「八幡宮(八幡さん)」となった。
明治14年5月に、周囲の浜辺が「松帆の浦」と呼ばれていたことから「松帆神社」と改称し、現在に至る。
〒656-2311 兵庫県淡路市久留麻256
主祭神は「市杵島姫命」(いちきしまひめのみこと)「伊奘諾命」(いざなぎのみこと)。以前、当社より北に多可宮と称される宮があり、それと対をなす格好で低宮と呼ばれていた。『日本書紀』には、祭神の二柱の神は共に履仲天皇の祝に出現され、さのため天皇は車持君に悪解除・善解除を負わせて長渚崎で禊祓い(みそぎはらい)を命じられたと記されている。長洲浜の開発行基五泊の一つである大河尻の修造の際、当地に縁りの深い神々として奉斎されたものかと思われる。平成7年の震災後社殿を改築。境内に白龍大神を祀る。また毎年1月には伊勢講が催される。
〒660-0802 兵庫県尼崎市長洲中通2丁目4-48
【ご由緒】当社の創始は定かではありません。
主祭神・日本武尊(倭建命、ヤマトタケルノミコト)は、『古事記』『日本書紀』にも記されている、大和の国(古代の日本国)を統一に導いた伝説の英雄です。(諸説ありますが、4〜5世紀、およそ今から1600年くらい前のことと云われております)
第12代景行天皇の第2皇子として生まれた小碓命(おうすのみこと)は、若い頃から武勇にすぐれておりました。西国は九州の熊襲タケル・出雲タケルなどの豪族を従えてまわり、その後休む間も無く、帝の命令により東の蝦夷などの統一に向かわれました。
東国を統一したその帰り道、尾張国のお妃・美夜受比賣命(宮津姫命)に神剣・天叢雲剣(草薙剣)を預け、伊吹山へ向かいました。(後にこの神剣が熱田神宮に祀られることとなります。三種の神器のひとつです。)
しかし、尊は伊吹山の戦いで傷つき、病におかされてしまいます。
尊は動かない体を引きずって、この能褒野の地にたどり着き、ここから遙かに父君のいる大和を望んでその短い生涯を終えられたと伝えられています。
〒513-0003 三重県鈴鹿市加佐登町2010番地
【御由緒】第十一代垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が、天照大御神の依り代である八咫鏡を笠縫村(奈良県桜井市)より各地を巡り、伊勢の五十鈴川の川上にお祀りしたことが皇大神宮のはじまりです。 当社は、その倭姫命巡幸の折、この地に暫く滞留せられた御宮所と伝承されており、大御神が伊勢の地に御鎮座された後は、皇大神宮の神領たりし伊勢神戸の神館神明社として奉斎されました。 往古、皇大神宮とは極めて深い御縁故と、尊崇すべき御神蹟を有するお社です。悠久の時を経て、弘治年間(一五五五年~)神戸城築城に伴い、近在に御鎮座の飯野神社・及び高市神社(ともに延喜式内社)を合祀しました。 以降明治二年、天皇御東幸のみぎりに奉幣代拝、明治六年に郷社に列せられました。明治四十一年には、神戸各町内御鎮座の複数のお社を合祀しました。そして、昭和四十七年に神戸城址に御鎮座の本多神社を合祀しました。 更に、先の大戦で散華せられた神戸町出身の御英霊もお祀りしています。 正式名称を神館飯野高市本多神社、通称名を神戸宗社と申し上げ、数多の神々を総じてお祀りする御神威篤きお社です。
〒513-0003 三重県鈴鹿市神戸2丁目18−28
古くは伊勢国における七夕伝説発祥の神社とされます。
三雲管内、新田開発以前の白砂青松の地で行われていた七夕祭は「伊勢星合祭」と呼ばれていました。
現在も「星合」「鵲」という地名が残り、神社の近くには「鵲橋」が存在します。※「鵲(かささぎ)」とは七夕の夜、織姫と彦星の橋渡しをした鳥です。主祭神は「天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)」
古い文献には「多奈波太姫(たなばたひめ)」とあります。
〒515-2101 三重県松阪市星合町507
古来伊賀の国の一宮として、当国の人々の総鎮守大氏神として、仰ぎまつってその霊徳に浴してまいりました。
創建年代は658年ですが、貞観の頃には神階五位を授けられ延喜の制には大社に列せられました。また延長年間には朝廷より社殿が修造せしめられ、南北朝時代には後村上天皇が行幸ましまして、数日間参籠あらせられ、社領の御加増もありました。徳川時代には藩主藤堂家の崇敬厚く、社殿調度の修営・神器社領の寄進・祭儀神事の復興などが行われました。明治4年5月国幣中社に列せられ今日に至っております。
〒518-0003 三重県伊賀市一之宮877
〒774-0021 徳島県阿南市津乃峰町東分343
〒933-0413 富山県射水市串田6841
〒957-0053 新潟県新発田市中央町3-1-15
〒942-0226 新潟県上越市頸城区塔ヶ崎53番地
〒038-3503 青森県北津軽郡鶴田町鶴田生松53
〒039-1105 青森県八戸市八幡字八幡丁3
当神社がある地域はその昔八戸村柏崎と呼ばれておりました。この柏崎という地区は、現在の八戸市中心街・内丸地区・柏崎地区などを含む八戸市の中心地域一体を指すそうです。
稲作を始め、集落という集合体の単位が見られ始めたころ、自然崇拝や産土信仰が各地で起こり始めた頃、柏崎地区の産土神としてこの地域の人々に祀られるようになりました。 これが法霊山龗神社のはじまりと言われます。
〒031-0075 青森県八戸市内丸2-1-51
〒998-0037 山形県酒田市日吉町1丁目7−32
〒979-0141 福島県いわき市勿来町窪田馬場72番地
土津神社は延宝3年(1675年)、磐梯山山麓見祢山(みねやま)の地に葬られた保科正之の墓所に造営された。「土津」(はにつ)という名称は、寛文11年(1671年)に正之が吉川惟足より吉川神道の奥義を授けられた際に「土津」の霊神号を送られたことに由来している。翌寛文12年12月18日(1673年2月4日)に正之が死去すると、遺言通り見祢山の麓磐椅神社(いわはしじんじゃ)の西方に葬られた。正之は生前、死後は磐梯山の神を祀る磐椅神社の末社となって永遠に神に奉仕したいと望んでいたという。そのため、土津神社は磐椅神社の末社となっている。現在境内には、明治13年(1880年)に再建された社殿と7つの末社、山崎闇斎の撰文で正之の治績を刻んだ高さ7.3mの土津霊神之碑があり、さらに奥の院として正之の墓所がある。
〒969-3102 福島県耶麻郡猪苗代町字見禰山3
〒805-0067 北九州市八幡東区祇園2-5-1
創立の年月不詳。社伝によると、延暦年間(782~806)坂上苅田麿が国司であった頃、深く当社を崇敬して再建したという。これに従えば、当社は奈良時代以前から奉祀されていたものと見えるが詳かではない。また、苅田麿が榊原源吾なる人物を当社に奉仕させ、その際太刀一口を奉納したという。慶長6年(1603)、越前国主結城(松平)秀康が入国して、当社の由緒を聞き、定紋付の器物を寄進したという。寛永12年(1635)正月、松平忠昌より鏡一面、剣一振の寄進があった。以来代々の国主・藩主が篤く崇敬した。安政2年(1855)福井藩家老、岡部豊後守より備前長船祐定太刀一口が奉納されている。
※一部を抜粋
〒910-0856 福井県福井市勝見2丁目1-6
当神社の起源は康保元年(964)に龍王村地頭職菅原某により創祀されたとされる。鎌倉時代の記録によると旧西二村郷(現在の川西町)には、藤原氏に所縁のある興福寺領の荘園が置かれ、その中心に春日神社が位置するため藤原氏の氏神である春日大社から勧請されてきたと考えられる。
天正年間に長曾我部元親の侵攻を受け本殿は焼失したが、御神体は炎の中から救出され、寛永14年(1637)の本殿再建に際して再び奉斎された。明治5年(1872) 8月には、旧社格制度において村社に列せられる。
〒763-0091 香川県丸亀市川西町北627
1. 祭神 玉依姫 応神天皇 神功皇后
何故海神を祀ったかは分からないが讃岐の国には女性の祭神が多い。その例としては、太田郷おもぢが原に祀る豊玉姫、百々襲姫などがある。
2-1. 由緒 三代物語には
太田八幡宮は郷社石清尾八幡の宮寺西願寺の供僧、其の祭を主どる」とあって広田八幡でなく、太田八幡となっている。
2-2. 全讃史には
「太田八幡宮は一ヵ村の社也未だ肇煙(ちょうえん)を知らず」とあって、社名を太田八幡と呼んでいる。これがいつどうして広田八幡となったのかは分からない。「一村の社也」と書かれているから、太田郷全域の氏八幡であったらしい。
3. 縁起としては
「姓氏録」に「中臣太田の連、天の児屋根命13世の孫御身の宿祢の後、蓋し此に居る乎。同族中臣の宮つ處の連、山田郡宮つ處に居る。以て証す可し」と書かれている。
〒761-8074 香川県高松市太田上町1037
通称「ぼたん寺」と言われている薬王寺は、明治維新までは菅生神社の別当の真言宗のお寺でした。境内には、明治になって菅生神社から移した本地堂・鐘楼のほか、本堂・大師堂・客殿庫裡・山門などがあります。 また、仏像は本尊薬師如来のほか脇侍などが8体と、仏画として高祖弘法大師像があります。大師像の両眼は弘法大師みずからの真筆と伝えられ、古来より目引大師と崇められています。 年中行事として、御影供(みえく)があり、各地からの参拝客で賑わいます。 4月中旬より境内のぼたんが咲き始めます。見頃は4月末日頃までです。
〒768-0105 香川県三豊市山本町河内3665
当神社は欽明天皇23(562)年の頃、京都賀茂両大明神を雄佐素根おさすねなる者が勧請し、下村と梅田の境花渕と称する所に齋き祀られたと伝えられている。
地名の総名の加茂谷も京都の賀茂信仰が広がるとともに、この地も賀茂社の神領となり、生れたものであろうといわれている。
大祭は毎年5月5日で葵まつりと称す。
御相殿の八幡宮は、後奈良天皇天文18(1549)年加茂の城主、左近太夫藤原春宗の勧請により、場所も現在の地に移し合祀する。
加茂氏の氏神とする。
古くは賀茂大明神とも、賀茂八幡両社とも称し、7ケ村の産土神として、祀られて来た。
現在は5地区の氏神として奉斎されている。
〒649-0133 和歌山県海南市下津町下567
当宮はこの地の産土の神として、古来より長きにわたり人々から崇敬されてきました。 神功皇后が三韓を征しての帰途、この有田広村にも行幸されたというご縁があり、欽明きんめい天皇(6世紀中頃在位)の御代に、河内国誉田こんだ八幡宮より勧請されたと言い伝えられています。 『紀伊続風土記』によれば、室町時代初期(応永年間)、梅本覚言うめもとかくごんという土豪が現在地に遷宮したとの記録がありますが、定かではありません。 天正年間には豊臣氏の紀州征伐により一部焼失しましたが、江戸時代には紀州徳川家の手厚い保護を受け、次第に興隆していきます。
〒643-0064 有田郡広川町大字上中野206番地
福良天満宮の歴史は、菅原道真(845~903)が59才にて延喜三年(903)太宰府にて御神退され、牛に引かせた亡骸を不動の地太宰府天満宮にお祀りされた後にはじまります。
菅原家一氏族が周防国(今の山口県)大畠を支配し菅原姓を大畠姓に改め、代々守護していた天神像を天正年間(1590年頃)豊臣氏全国征伐の難を逃れ、豊後国海部郡福良荘に勧請し手厚くお祀りされました。
〒875-0053 大分県臼杵市福良211
田原神社は大田原の総鎮守として創建されました。七福神の中でも唯一の日本の神様。いざなみ、いざなぎの二神の第三子といわれ、満三歳になっても歩かなかったため、船に乗せられて捨てられてしまい、やがて漂着した浜の人々の手によって手厚く祀られたのが、信仰のはじまりとつたえられている、左手に鯛を抱え右手に釣竿を持った親しみの深いお姿の、漁業の神で、特に商売繁盛の神様としても信仰が厚い。
〒324-0051 栃木県大田原市山の手2丁目2039
景行天皇55年、豊城入彦命の孫彦狭島王命が、勅を奉じ沙本毘古の乱を平らげ賞を賜り、任国毛野国に帰途の途中、春日穴作邑に至り病にて眠った。その時、任国の民が悲しんで王の屍を密かに掘り出し、毛野国伊香保の郷に奉葬し塚を造り祠を立て、狭島大明神と称して崇敬した。
その後、田原藤太秀郷公が、平将門公の討伐を祈願して見事成就した。これをもって家臣大門・小野寺式部両人に祠再建普請奉行を命じた。
944年12月25日に免田畑15町歩を寄進し、945年3月15日に竣工した。同25日に上毛野の延喜式内社である赤城神社より日本武尊を勧請合祀し、狭島を改め赤城大明神と号し、上毛野の宮を上の宮、当社を下の宮と称した。
〒327-0835 栃木県佐野市植下町430
当神社は今より約800年前の弘長2年(1261)に創建され、主祭神「木花咲耶姫命」ほか7柱の神々を奉祭する。
徳川時代に館林藩の領域となりその鬼門除として広く崇敬され現在に至っては葛生の氏神として初詣には地域外からも多数の参拝を得ている。
5月1日の例祭には神楽舞、子供神輿、ゲートボール大会などで終日にぎわっている。
又、末社には金精大明神が奉られおり、夫婦和合、子宝の神様としての信仰が厚い。
〒327-0523 栃木県佐野市嘉多山町1786
真庭観光局は、地域の方と一緒に “観光地域づくり” に取り組んでいます。その中の一つ「真庭のお寺活用ネットワーク」事業。
地域づくりマネージャー2名と、2020年7月に発足した『旅僧まにわ』のメンバー、真庭観光局で活動を実施しています。
『旅僧まにわ』とは?
宗派を超えた真庭の寺院 有志の会。
お寺×観光の側面から、お寺の活用と地域活性化を目指しています。
真庭観光局が真庭の寺院とタイアップし、お寺の魅力をお届けします。
〒717-0013 岡山県真庭市勝山654
当山の開基は奈良時代、天平勝宝六年(七五四年)孝謙天皇の招きにより来朝された唐僧鑑真大和上であります。また報恩大師が孝謙天皇の勅により、備前四十八寺を整備されるに当たり、当山もその内に加えられています。国分寺を除いて国史に名を留める県下最古の寺院でもあります。後に真言宗に属し、寺観壮麗を極め、済世利人の道場として栄えていました。万寿元年火災(第一回目)にかかり衰微し中古の歴史を欠く。室町時代(観応元年)代々の足利氏の保護を得て、盛時は三十坊を伝えたと伝う。康生元年(一四五五年)赤松、山名の両氏の戦乱にあい、三重塔、仁王門を残し全山焼亡(第二回目)。江戸時代に至り、池田氏の保護厚く伽藍及び十三坊を整備し明治に及びましたが、時代の転換やむなく、現在の三ケ院(西法院、実相院、福寿院)となりました。
〒705-0003 岡山県備前市大内995
当神社は「蛭子尊(えびすのみこと)」を御祭神とする、九州では最も古い神社で、第八十代高倉天皇の御代承安2年(1172年)に建立され、御創祀以来神威昭々として今日に及び、昭和47年(1972年)には八百年の式年祭が斎行されました。
正式に神社として祀られたのは、当神社が九州では最古といわれ、平治元年(1159年)五月に六条判官である源義経の祖父の源為義の家人、本田大和守昭雲(あきたか)が西ノ宮の御分霊を捧持して、杵島郡山口(肥前山口)に下ったのが承安2年(1172年)です。
〒840-0012 佐賀県佐賀市大字光法1425番地
寛永14年(1637年)当寺の開基は明教院日運上人で、島原の乱に敗れ、当地に住し草案を建て、友の霊を葬る。その後17歳で出家し、元禄7年3月6日74歳で遷化す。生涯、34,037部の法華経転読を成就し、当世読誦第一の沙門として法印大僧都の栄誉を受けた。寛文12年(1672年)、鍋島家藩主松平丹後守藤原光茂朝臣建立の万部堂は本堂正面右手にあり、鬼子母尊神、三十番神、御開山上人像などが安置されている。尚、当山守護の摩利支天が勧請ありしと云うも、その特異性から常にその形を隠し、除災得幸、破邪顕正の利生をあらわすと云うことから、特に尊像としては祀られていない。本堂御本尊一塔両尊四士 合掌印 (祖像)読経像。
〒840-2102 佐賀県佐賀市諸富町大字為重1650
長久2年(1041年)松浦党の祖である松浦久(源久)がこの地の凶賊征伐の戦勝祈願のために加賀国の白山比咩神社を勧請した。
創建時には南波多町古川(ふるこ)にあったが、南波多町井手野字鳥居原(とりいばる)に移転、その後、新田開発のため現在地に移転した。
祭神
菊理媛神・伊邪那岐命・伊邪那美命
〒848-0007 佐賀県伊万里市南波多町井手野2927
常光寺様は曹洞宗のお寺です。
如意輪観音様を御本尊とし、柴田郡三十三観音のひとつとされております。
〒989-1741 宮城県柴田郡柴田町富沢井戸神21
福壽山円龍寺は宮城県柴田郡柴田町入間田寺に境内を構える曹洞宗の寺院です。円龍寺の創建は安土桃山時代の文禄3年(1594)に開山したのが始まりとされ、文禄2年(1593)に屋代景頼が船岡城の城主になっている事から屋代氏と関係が深い寺院だったと思われます。
〒989-1745 宮城県柴田郡柴田町入間田寺35
正安寺の発端は延久4年(1072)、荒船山麓の館ヶ沢に端を発し、正安元年(1299)苦水に移り「開創」。 而来この「開創」(正確には再建)時の年号でもある正安元年から「正安寺」と呼称さる。応永年間廃寺同然となるも文亀元年(1501)、古城主内山美作守の助力を得、甲州の総泉院より海秀玄岱禅師を請待、旧跡を取り立て、曹洞宗正安寺を再開創。
〒385-0031 長野県佐久市内山7864
〒399-4117 長野県駒ヶ根市 赤穂2868
〒396-0001 長野県伊那市福島1105
〒386-0403 長野県上田市腰越1530
〒386-1211 長野県上田市下之郷中池西701
第十二代景行天皇の時代(皇紀731年~790年 西暦71年~130年 )に、日向の国(現・宮崎県)の熊津彦(くまつひこ)がそむいたので、天皇は景行十八年四月に御軍を率いて九州に上陸され、高天山(震嶽)に行宮を営まれました。熊津彦は土蜘蛛の津頬(つちぐものつつら)と共に兵を進めて夜中に天皇を襲いました。天皇が行宮において諸神をお祈り遊ばされますと、彦嶽の頂上より高天山に霊感があって、高天山は大いに振動し、賊徒はたちまち敗走して天皇の大勝となりました。天皇は進んで日向の国に攻めて、熊津彦及び津頬を誅し給い、お帰りの途中に神恩に感謝して、彦嶽三所に神宮を造立されたのであります。これが、彦嶽三所宮の創建であります。
〒861-0551 熊本県山鹿市津留2248
雲昌寺の歴史は、1624年(江戸時代前期)にはじまり、寺伝では秋田市にあった正洞院二世観庵喜察大和尚を開山として開創されたといわれています。本堂は江戸時代に建立され、本尊は大阪の仏師作の墨書がある説法の釈迦牟尼像を祀る、曹洞宗の寺院です。
〒010-0683 秋田県男鹿市北浦北浦北浦57
源平の乱(治承の内乱)の後、この地へ逃れた平清盛の長子・重盛の一族のひとりが平家一門の菩提を弔うため信州善光寺に48度の参詣を発願。12年後、願成就の際に受けとった不思議なお告げに従い近江のこの地に如来堂を建立したのが始まりです。
〒520-3043 滋賀県栗東市林256
古墳(五四七)時代に草創され、金沢最古の宮として、 三輪神社を号し、奈良時代には神仏習合となり石浦山慈光院長谷寺と改め、 江戸時代には石浦山王、石浦大権現、明治の神仏分離令により 石浦郷の地名をとり石浦神社と改称した。
【 加賀國式内等旧社記 】
三輪神社、式内一座石浦郷石浦村鎮座称石浦山王石浦郷
七箇村惣社今属石川郡也と記される。
〒920-0964 金沢市本多町3丁目1番30号